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自己愛と対象愛

大変暑い日が続きます。祭りの法被にアイロンを掛けながら、考えていました。大きなイベントの中では、3種類のタイプが存在してると。

一つ目は音頭をとって仕切るリーダー。二つ目は黙々と裏方をする人、三つ目は、何もしない人。でもそれぞれのタイプにも、他人を意識して批判するタイプとまったくマイペースでいる人との2種類があるようです。

私は今年は役員でもなく(来年役員なので仕事を覚えるため)役員さんの補助を心がけていましたが、本当に地道に片付けなどをやりながらそれを気にすることなく自然にいる人もみえるのですね。大変尊敬しました。同じように動くけれど「あの人はしない、この人はどうだ」と始終批判している人もいて、せっかくやっているのにもったいないなあと思う人もあります。

なぜだろう?と考えを進めてみると、先日のコメントで触れましたがそこには行為者の「対象愛」と「自己愛」の違いがあるように思いました。人のためにやっても気にならない人は相手が楽になることを願うのですが、それをあれこれ言う人は結局自分のためにやっていて、他人にも同じ行動を期待するから報われないと腹が立つのでしょう。

ユングは性格を分析して「内向型」「外向型」と分けました。内向タイプは一般に考えられる「うじうじさん」という否定的な意味ではなく、「判断の基準が自分にある人」であり、時にはマイペースに見えることもある人。一方外向タイプも「社交的」という意味ではなく、「判断基準が回りにある人」という意味で良い意味では空気が読める人とも言えます。

もしかしたらこうした違いがあって、他人が気になるのかもしれませんが、他人の視線を気にして自分が動くとか、他人の評価を気にして自信が持てない人は、どうしても他人にも期待をして、報われないとさびしい思いをしなくてはなりません。

ここで間違いやすいのは、子どもが絡む場合ですが、子どもは「自分の分身」となっている人には子どものためというのも実は「自己愛」であることが多いです。

非行関係の相談の中で気になる保護者の発言に「他人に迷惑をかけるなと言っているのに」というものがあります。他人に迷惑をかけない人なんて本当にいるのでしょうか?多かれ少なかれ互いに迷惑を掛け合って生きているのが人間ではないかと思います。だから迷惑をかけすぎてはいけないのですが、「じゃあ、他人に迷惑をかけなければタバコ吸ってもいいじゃん」という理屈になって子どもの喫煙を止められない親がでてくるのです。

そうした場面に私は「そうか、子どもには『他人のためなる喜び』を教えなくてはいけないな」と学びます。他人のために働くことを喜べる人間・・・となると大人社会でも3分の1くらい、しかも対象愛で動ける人間の割合は6分の1ということになるんですね。

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コメント

学生時代、茶道部で指導してくださった先生が卒業のおり、色紙に「他人のために動ける人になりなさい」と書いてくださいました。
自分では御稽古ののことで手いっぱいで、けれど短い間に上達できたと満足していたので、少なからずショックでした。
今はまた御稽古を再開しているので、そのことを忘れないようにと思っていたのですが…。
いまさらながら御稽古に限らず、生きていくうえで、そういうふうに他人と関わって生きていくほうが心豊かに過ごせるんだというありがたいお言葉だったんだなと思います。
こどもに他人のためになる喜びを教えるには「ありがとうheart01」の言葉が一番ですよね。

山さん、絵文字の入れ方教えてくれてありがとう♪

幼児期にまず「ありがとう」といえば子どもは張り切って動いてくれますが、誰にもありがとうといってもらえない状況で喜んでできる人間になる転換期はいつなんでしょうね。
「ありがとう」と言ってもらうことが嬉しいうちはまだ「自己愛」なんですよね。

先日チアーズのお手伝いをしたとき、ネモキッズは実によく働き、でも参加者の中に紛れているので誰からも感謝されることはありませんでしたが、子どもたちの顔は実に晴れ晴れしていました。そのときバルタンが「人のためにできるって嬉しいことだね。」といいました。そしてキッズをつれて近所に夏みかんを取りに行ってくれました。
予期せぬご褒美に子どもたちは大喜びでしたが、もしご褒美がなくても子どもたちは幸せだったろうと思うと、彼らの対象愛はいつごろから育ってきたのだろうと感慨深いものがあります。

ご褒美について。
クリーンシティ鈴鹿に参加しても、自治会の草取りに参加してもこどもにはジュースやらお菓子がふるまわれます。ものすごく違和感を感じています。そんなんで、まともな大人に育つンか!?自分の町や学校、公園をきれいにすることは当たり前やんかと。
ご褒美貰うのが当たり前になりそうでいやです。
でもそのときにバルタンさんのような大切な一言を添えてもらえたら、ご褒美はご褒美、自分のいい気持はそれとして受け止められるのかな、と思います。こどもはかわいそうとか悔しいとか、最初から知っているのではなく、経験と周りからの声掛けで気持と言葉がつながっていくように、大人がよいタイミングで適切に声掛けすることで、「いつから」ではなく、その時に生まれて形になるのかも、とも思うのです。confident

もちろんそうなんですよ。
タイムリーな声掛けによって形になる瞬間があるんだけど、自己愛が対象愛にかわるのっていつ頃だろうって考えたんです。

先日グローリーで草取りしていたら年少さんくらいの女の子が寄ってきて一緒に草取りしてくれました。声掛け合うような間柄でもなかったので、彼女はたぶん私にほめてもらおうと思ってしたわけではないと思ったんです。でも彼女にはもう「一緒にする喜び」が芽生えてたんですよね。
私が特にお礼も言わなくても続けたろうか?いや、そこでコミュニケーションが生まれることを彼女は期待したのかも。そうすると「平行遊び」ができると、そこには「共同作業の楽しみ」が生まれて、そこで「ありがとう」と言われるとそれが強化され、誰かのために何かすることは心地よいという循環が生まれるということなのかなあ・・・いえ独り言の理屈です。こんなこと考えたり話し合ったりするのが好きなふぁすコアなんです。

奉仕作業で出されるお茶はもはやご褒美ではないですね(苦笑)出て当たり前、もらって当たり前。それって奉仕じゃないじゃん!というゆりさんの突っ込みもわかります(爆)

夕方、3歳の弟が友達の声に惹かれて外に遊び飛び出して行った時、夕飯準備をしていた私がすぐに追いかけることができずにいると、小4の長女が何も言わずにあとを追いかけていき、そのまま母親代わりに見守り遊んでくれた。
「弟の面倒を見て」とお願いした訳ではなく、娘がそうしようと自分で判断して行動したのだ。
そんな面倒見のいい娘がいてくれて、私はとてもありがたいと思った。そして弟と近所の子と娘が楽しそうに遊んでいる姿を見て、娘は「ママの代わり」を楽しみながらしてるんだなぁと思った。
特別「ありがとう」と娘に伝えることはなかったけれど、私のにこやかな表情と弟の楽しそうな笑顔に包まれて、娘はきっとうれしかったに違いない。

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